3月15日のミャンマー議会で、アウン・サン・スー・チーさん率いる国民民主連盟(NLD)のティン・チョー氏が大統領に選出された。昨年のNLDの歴史的勝利から予想されたことで、外から見るとこれで民主化が一挙に進み「アジア最後のフロンティア―」が本格的に動き出すと思われるかもしれない。しかし、私にはそう単純なものには思えないのである。
私はミャンマーでのIT開発の可能性を自分の目で確かめたく、2013年12月にミャンマーへ赴いたのである。それは、テイン・セイン大統領(中国系、軍出身)が2011年3月に経済開放政策へ舵を切り、外資投入が可能になったためである。軍事政権側は、スー・チーさんの軟禁解放、経済開放、民主化総選挙と今回に繋がる筋道を自ら描いて来たのである。NLDの歴史的勝利は数年前に軍政側が巧みに仕掛けた想定シナリオだったのであろう。そのミャンマーの実態からすれば、既に軍関係者へ利権が集中した構図を変えるのは、そんな生易しいものではないと思えてならないのである。加えてアウン・サン・スー・チーさんにどれだけの経済運営力があるのか、全くの未知数である。
ところで、難しい今後の行方はさておき、歴史と最後のフロンティア―の2つの視点から、私の知るミャンマーについて述べてみよう。
複雑な民族間対立の歴史
ミャンマーは、約7割がビルマ人、残りはシャン族やカレン族など100以上の民族からなる多民族国家である。今でも国境・山岳地帯は独立運動盛んな危険地帯、軍も手を焼いている。統治でき治安が良いのは平野部だけである。軍とNLDの争いはこの7割のビルマ人同士の確執と言っても過言ではない。東部に行けば、国境はあるもののタイ西部と同じシャン族が住んでいる。どちらかと言えばタイ国の方が馴染み深いのではないか。この多民族問題は単一民族で島国の日本人にはなかなか理解しがたい問題であろう。NLDが政権を取っても民族問題は全く解決しないのである。次の地図で7つの管区は軍が治めるビルマ族が主の地域、その他の州は軍政が及ばないビルマ族以外の民族が自治権を持つ地域を表している。だからミャンマーは連邦なのである。
その歴史は、11世紀にチベット・ビルマ語族のビルマ人が統一国家を樹立するも、モン族やタイ系のシャン族など入り乱れる不安定な統治が続き、19世紀後半にイギリスの植民地化がされた。第二次世界大戦後独立するも、1974年にビルマ連邦社会主義共和国、1988年の民主化運動勃発を機に軍政化が始まり現在に至っている。言語はビルマ語であるが英国領であったことから英語も得意とされている。このビルマ語はチベットを起源としているので、モンゴル・朝鮮半島経由で伝わった日本語と文法が同じである。従って、ミャンマー人はビルマ語の他、英語と日本語を覚えるのが早く、これを期待して進出する日系企業も多い。
アジア最後のフロンティア
色々な見方はあると思われるが、アジア最後のフロンティアと言われるのは次の3つが理由であろうと思われる。
- 安価な労働力
- 人口多の内需ポテンシャル
- 日本人気質があり勤勉・従順
安価な労働力は、何れ経済発展に伴って高騰してくるが、暫くは中国の次の受け皿として時間稼ぎできるであろう。何と言っても東大並みのITエンジニアが初任給数万円以下で雇用できるのである。但し、工学部や情報学部の8割以上が女性であり、男性には軍か医者か船乗りの人気が高い。国内産業が発達していないこともあるが、私が訪問したヤンゴン・コンピュータ大学とIT企業トップは全て女性であった。
6000万人と言われる人口は、経済環境が良くなれば更に増加しあっと言う間に日本を超すであろう。この人口の持つ内需ポテンシャルは相当期待できる。現に、日本のODAもあってインフラの整備が始まり都市への人口流入が起きている。この相乗効果で最大都市ヤンゴンの開発は凄い勢いで進んでいる。残念ながら韓国やシンガポール・マネーで大規模ショッピングセンターも作られている。まるで戦後日本の高度成長期を見るようである。建設ラッシュであるにも関わらず供給が追い付かず、ヤンゴン市内の外国人向け消費は超インフレになっている。例えば外国人が泊まれるホテルは有にUS$300を超え、さらに上がる一方であった。また、子供の教育に対して非常に熱心である。ヤンゴンの学校の近くは、朝昼夕と送迎する両親達の車で大渋滞していた。日本でも一昔前に話題になった教育ママを連想してしまう。恐らく貧富の差がそのまま教育の格差にもなってしまい兼ねない気がする。
ビルマ人は敬虔な仏教徒で、家族を大事に、目上を敬う優しい人が多い。現地進出している日本人経営者に聞くと、異口同音に一番従順で口答えしないのがミャンマーだと言われる。まさに終戦直後の日本人を見ているような感じがするのである。おとなしいが、内に秘めたる思いは強く辛抱強く頑張り屋である。通訳をしてくれた二人の女性は、何れも控え目だが芯はしっかりしていて、頭が良く機転が利くまさに大和撫子であった。但し、ITの進化によってミャンマーの若者にもネットの世界が広がっており、日本が経験した戦後70年は一気に短縮されミャンマー人の気質をも変化させてしまうであろう。
微笑みの国とは
ミャンマー観光のキャッチフレーズに「微笑みの国」と言うのがある。これまでのミャンマー人にはこの言葉が良く似合っている。アウン・サン・スー・チーさんが、何十年に亘る軟禁生活に堪えてようやく収めた勝利がまさにこれを代表している。何故、ミャンマーでは悲惨な流血事件が起きなかったのか、世界中が驚いたことであろう。しかし、一方で長く軍政が続いてしまったため、軍部にこの国の利権が全て集中してしまったのも現実である。殆どの経済活動の要所は軍関係者が押さえているので、NLDが幾ら頑張っても一朝一夕には変わらないのではないか。この状況の下で、これまで通り微笑みながら民主化しようと思えば、私たちが考えるより遥かに緩やかで長い時間かけた民主化になるであろう。でも、中東の悲惨な状況を見れば見るほど、焦らずじっくりと微笑みの民主化をして欲しい。そのためには、外国資本は節度をわきまえた微笑みの国に相応しい投資をして行かなければならない。このコントロールは民間ではなく政府間でしかやれない課題である。
ミャンマーの寺院の特徴は、どれを見ても金ピカであることだ。これは信者たちのお賽銭代わりの金箔寄付によるものである。信者の人達は寺院へ行くと、お賽銭をあげるのではなく金箔を買って張るのである。また、仏像も笑っているものが多い。どうか永遠に微笑みの国が続くよう願って止まないのである。

